2010年10月15日
華林寺墓地 『坊主墓』
みなさん、こんばんは(o^―^o)ノ
前回お話したとおりPCが壊れてしまったので顔文字が変わってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。
今日は霧島神宮のすぐ近くにある華林寺の坊主墓について紹介させていただきます。
場所は霧島神宮の階段の前を通っている市道を旧参道方向に走って行き、そのまま橋を渡ったところに『霧島錦鯉公園』の看板が見えてきます。
その看板のすぐ横に坊主墓の説明標識が立っていますよ。
『1234年(文暦元年)の霧島山大噴火により、消失した「霧島神社」は戦乱等により長い間、仮宮(霧島中学校裏にあった待世神社)であったが、1484年(文明16年)第11代藩主「忠昌公」は、真言宗の僧「兼慶法印」に命じて神社及び別当寺を造営した。この時から宗旨は「天台宗」から「真言宗」となり、神社は「西御在所六所大権現」、寺は「霧島山錫杖院華林寺」といわれ、華林寺墓地はこのころからのものである。1705年(宝永2年)華林寺より出火し、神社・仏閣はすべて消失したので、1715年(正徳5年)第21代藩主「吉貴公」の再建により、豪壮な社殿、仏閣が出現した。しかし、1868年(明治元年)廃仏毀釈により華林寺は廃止された。この墓地は華林寺で往生した住職などの墓で「五輪塔」、「板碑」、「多宝塔」等あらゆる種類の墓碑約160基が数えられる。』と書かれています。
また別な資料には『霧島神宮より西の方約500mの所、華林寺跡と霧島川をはさんだ対岸には華林寺墓(坊主墓)がある。神仏分離令が発せられる以前の華林寺累代の住職の墓地で、文禄2年(1593年)から文政10年(1827年)までの年代不明のものや無名のもの等、古風な墓碑が残っている。墓碑の数から、かつての華林寺の壮大さが分かる。』と書かれていました。
かなりたくさんの墓が立ち並んでいます(*゜ェ゜))
こちらが墓の一つです。墓の中になにやらもう一つ墓みたいなのが入ってました。
おそらく江戸時代くらいに作られた物だと思うんですが、どうやって彫ったんでしょうねぇ(*´-ω・)ン?
正直凄いの一言です。
こちらは五輪塔です。一つ一つに梵字が彫られていました。なんだか本当に神秘的ですよね(*゜д゜))
これがまず一つ目の梵字です。俗に言うサンスクリット字ですね。インドの字ですよね。
これが二つ目の梵字です。
これが三つ目の梵字です。
これが四つ目の梵字です。恐らく全てに仏教の意味があるはずですが、今回はそこまで調べておりません。
また機会があったら調べておきますね。
ちなみに普通浸透している仏教は漢字ですが、真言宗や天台宗は梵字なんですよ。これは真言宗や天台宗が直接インドから入ってきた密教だからだと言う風に聞いたことがあります。
浄土真宗などはインドから中国に渡りさらに韓国を経由して入ってきたから漢字で書かれているんだと聞きました。
もし間違えてたらコメントで書き込んでくださいねm(__)m
そして、そのほかにも仏像などもありました。
貴重な仏像だと思います。廃仏毀釈の際にほとんどの仏像は首を落とされてなくなっていたんですよ。
特に薩摩藩は廃仏毀釈を徹底的にされたそうです。
こちらはすぐ隣にあった首を落とされた仏像です。
この華林寺にある仏像などは首を落とされるか埋められるかしてほとんどなくなったそうです。
本当にもったいないことをしたものだと思います。
この廃仏毀釈ですが、自分の勝手な解釈としては、明治維新で国民の気持ちを天皇家に向かわせるために行ったのではないかと思っています。神宮で奉られている神様は天皇家のご先祖様ですからね。
ほかにもいろんな思惑が重なり合ってこのように徹底したんだと思います。
霧島神宮の横には華林寺の跡があるので是非発掘調査をして欲しいなぁ。
かなり貴重な埋蔵物が眠っているように思ってしまいます。
皆さんも昔の貴重な史跡を見てみたいと思ったら霧島神宮だけではなく、華林寺墓地 『坊主墓』にも足を運んでみてくださいね。
今日はかなり長文になってしまいましたが最後まで読んでいただきありがとうございましたヾ(*'0'*)☆バイバイ☆
前回お話したとおりPCが壊れてしまったので顔文字が変わってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。
今日は霧島神宮のすぐ近くにある華林寺の坊主墓について紹介させていただきます。
場所は霧島神宮の階段の前を通っている市道を旧参道方向に走って行き、そのまま橋を渡ったところに『霧島錦鯉公園』の看板が見えてきます。
その看板のすぐ横に坊主墓の説明標識が立っていますよ。
『1234年(文暦元年)の霧島山大噴火により、消失した「霧島神社」は戦乱等により長い間、仮宮(霧島中学校裏にあった待世神社)であったが、1484年(文明16年)第11代藩主「忠昌公」は、真言宗の僧「兼慶法印」に命じて神社及び別当寺を造営した。この時から宗旨は「天台宗」から「真言宗」となり、神社は「西御在所六所大権現」、寺は「霧島山錫杖院華林寺」といわれ、華林寺墓地はこのころからのものである。1705年(宝永2年)華林寺より出火し、神社・仏閣はすべて消失したので、1715年(正徳5年)第21代藩主「吉貴公」の再建により、豪壮な社殿、仏閣が出現した。しかし、1868年(明治元年)廃仏毀釈により華林寺は廃止された。この墓地は華林寺で往生した住職などの墓で「五輪塔」、「板碑」、「多宝塔」等あらゆる種類の墓碑約160基が数えられる。』と書かれています。
また別な資料には『霧島神宮より西の方約500mの所、華林寺跡と霧島川をはさんだ対岸には華林寺墓(坊主墓)がある。神仏分離令が発せられる以前の華林寺累代の住職の墓地で、文禄2年(1593年)から文政10年(1827年)までの年代不明のものや無名のもの等、古風な墓碑が残っている。墓碑の数から、かつての華林寺の壮大さが分かる。』と書かれていました。
かなりたくさんの墓が立ち並んでいます(*゜ェ゜))
こちらが墓の一つです。墓の中になにやらもう一つ墓みたいなのが入ってました。
おそらく江戸時代くらいに作られた物だと思うんですが、どうやって彫ったんでしょうねぇ(*´-ω・)ン?
正直凄いの一言です。
こちらは五輪塔です。一つ一つに梵字が彫られていました。なんだか本当に神秘的ですよね(*゜д゜))
これがまず一つ目の梵字です。俗に言うサンスクリット字ですね。インドの字ですよね。
これが二つ目の梵字です。
これが三つ目の梵字です。
これが四つ目の梵字です。恐らく全てに仏教の意味があるはずですが、今回はそこまで調べておりません。
また機会があったら調べておきますね。
ちなみに普通浸透している仏教は漢字ですが、真言宗や天台宗は梵字なんですよ。これは真言宗や天台宗が直接インドから入ってきた密教だからだと言う風に聞いたことがあります。
浄土真宗などはインドから中国に渡りさらに韓国を経由して入ってきたから漢字で書かれているんだと聞きました。
もし間違えてたらコメントで書き込んでくださいねm(__)m
そして、そのほかにも仏像などもありました。
貴重な仏像だと思います。廃仏毀釈の際にほとんどの仏像は首を落とされてなくなっていたんですよ。
特に薩摩藩は廃仏毀釈を徹底的にされたそうです。
こちらはすぐ隣にあった首を落とされた仏像です。
この華林寺にある仏像などは首を落とされるか埋められるかしてほとんどなくなったそうです。
本当にもったいないことをしたものだと思います。
この廃仏毀釈ですが、自分の勝手な解釈としては、明治維新で国民の気持ちを天皇家に向かわせるために行ったのではないかと思っています。神宮で奉られている神様は天皇家のご先祖様ですからね。
ほかにもいろんな思惑が重なり合ってこのように徹底したんだと思います。
霧島神宮の横には華林寺の跡があるので是非発掘調査をして欲しいなぁ。
かなり貴重な埋蔵物が眠っているように思ってしまいます。
皆さんも昔の貴重な史跡を見てみたいと思ったら霧島神宮だけではなく、華林寺墓地 『坊主墓』にも足を運んでみてくださいね。
今日はかなり長文になってしまいましたが最後まで読んでいただきありがとうございましたヾ(*'0'*)☆バイバイ☆
Posted by sarutahiko at 20:14│Comments(0)
│神社・仏閣
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