2010年09月24日
桂久武公没後133年祭
皆さんこんばんは(゚▽゚)/
彼岸をすぎたらちょっと肌寒くなって来ましたねf^_^;
今日は自分の尊敬する桂久武公が亡くなられて133年経ったと言うことで霧島小学校近くにある豊受神社で祭事が行われました。

豊受神社です
桂さんが亡くなられたのは西郷さんと同じ日の西南の役最終日だったので今日で133年になるんです。
西郷さんと言われると随分昔の方のように思われますがまだ133年しか経っていないんですよ。
先人を忍びつつ今日は飲み明かす予定です(^O^)

鹿児島神社から山下宮司様が薩摩琵琶をひきにきてくださいました
ではまた(^O^)/
彼岸をすぎたらちょっと肌寒くなって来ましたねf^_^;
今日は自分の尊敬する桂久武公が亡くなられて133年経ったと言うことで霧島小学校近くにある豊受神社で祭事が行われました。

豊受神社です
桂さんが亡くなられたのは西郷さんと同じ日の西南の役最終日だったので今日で133年になるんです。
西郷さんと言われると随分昔の方のように思われますがまだ133年しか経っていないんですよ。
先人を忍びつつ今日は飲み明かす予定です(^O^)

鹿児島神社から山下宮司様が薩摩琵琶をひきにきてくださいました
ではまた(^O^)/
2010年07月02日
「桂家」と彫刻家「安藤照氏」
みなさん、こんにちは(^O^)
今日も元気に頑張ってますか?
いつのまにか昨日から7月になってたんですね(゜o゜ /)/
元気に頑張って行きましょうp(*^-^*)q
さて、昨日は南州墓地についてお話させていただきましたが、最後の方で鹿児島の西郷隆盛の銅像を作った「安藤照氏」の事に触れましたが、その方についてお話したいと思います。
安藤照氏は明治25 年(1892 年)に鹿児島市の新屋敷町で生まれ、 昭和20年(1945年)5 月25日に亡くなられています。
この新屋敷の家の近くに桂久武公の子孫の方が住んでおられ旧知の仲だったそうです。
安藤照氏の主な代表作としては鹿児島にある西郷隆盛の銅像や渋谷にある忠犬ハチ公などがあります。

こちらが鹿児島市内にある西郷隆盛の銅像です。軍服姿が格好良いですよね ( ̄一* ̄)b

待ち合わせ場所として有名な渋谷駅にある忠犬ハチ公の銅像です。
実はこの渋谷駅にある忠犬ハチ公の銅像は2代目なんですよ。
忠犬ハチ公に何故初代と2代目があるか知っていますか??
初代忠犬ハチ公の銅像は第二次世界大戦中に金属資源が不足になり例外なく取り外され、供出されたそうです。
終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に鉄道省浜松工機部で溶かされ機関車の部品となって東海道線を走ったんだそうです(>_<)
現在の忠犬ハチ公の銅像は2代目で、安藤照の息子で彫刻家の安藤士(たけし)さんが制作し、1948年(昭和23年)8月に再建されたものでなんですよ。
この安藤照氏は桂久武公の子孫と幼い頃から面識があったらしく、彫刻家になったあとは東京から帰ってくる毎に桂家の方に遊びに来られていたそうです。
この安藤照氏から桂家に譲られた氏神や銅像を写真に納めてきましたので紹介しますね。

左右に一対のお面の銅面が見えますか?

こちらが左側のお面です。

こちらが右側のお面です。やっぱり迫力がありますよね。

桂家氏神 神殿鬼瓦 昭和10年 安藤照氏作って書いてありますね

犬の銅像です

犬の銅像のアップです。 『ANDO』1925.11って彫られています。

裸婦の銅像です。彼女だったのかなぁ~(-.-;)

裸婦の銅像のアップです。昭和6年2月 照 って書いてありますね。
このように桂家には西郷の銅像を作った安藤照氏から譲られた作品がいくつかありました。
西郷隆盛と無二の親友だった桂久武。その西郷の銅像を作った彫刻家安藤照氏と交友があった久武の子孫の関係。世の中の偶然を垣間見た瞬間でした。
やはり代は変わっても自然とつながりってあるんだな~と思ったサルタヒコでした。
これからも桂さんには明治維新の立役者西郷隆盛とその親友桂久武公のことを我々に伝えていただきたいですね。そしてその事を我々は霧島に住む次世代の若者に伝えていかなくてはと強く思いました。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました(⌒∇⌒)ノ""
今日も元気に頑張ってますか?
いつのまにか昨日から7月になってたんですね(゜o゜ /)/
元気に頑張って行きましょうp(*^-^*)q
さて、昨日は南州墓地についてお話させていただきましたが、最後の方で鹿児島の西郷隆盛の銅像を作った「安藤照氏」の事に触れましたが、その方についてお話したいと思います。
安藤照氏は明治25 年(1892 年)に鹿児島市の新屋敷町で生まれ、 昭和20年(1945年)5 月25日に亡くなられています。
この新屋敷の家の近くに桂久武公の子孫の方が住んでおられ旧知の仲だったそうです。
安藤照氏の主な代表作としては鹿児島にある西郷隆盛の銅像や渋谷にある忠犬ハチ公などがあります。

こちらが鹿児島市内にある西郷隆盛の銅像です。軍服姿が格好良いですよね ( ̄一* ̄)b

待ち合わせ場所として有名な渋谷駅にある忠犬ハチ公の銅像です。
実はこの渋谷駅にある忠犬ハチ公の銅像は2代目なんですよ。
忠犬ハチ公に何故初代と2代目があるか知っていますか??
初代忠犬ハチ公の銅像は第二次世界大戦中に金属資源が不足になり例外なく取り外され、供出されたそうです。
終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に鉄道省浜松工機部で溶かされ機関車の部品となって東海道線を走ったんだそうです(>_<)
現在の忠犬ハチ公の銅像は2代目で、安藤照の息子で彫刻家の安藤士(たけし)さんが制作し、1948年(昭和23年)8月に再建されたものでなんですよ。
この安藤照氏は桂久武公の子孫と幼い頃から面識があったらしく、彫刻家になったあとは東京から帰ってくる毎に桂家の方に遊びに来られていたそうです。
この安藤照氏から桂家に譲られた氏神や銅像を写真に納めてきましたので紹介しますね。

左右に一対のお面の銅面が見えますか?

こちらが左側のお面です。

こちらが右側のお面です。やっぱり迫力がありますよね。

桂家氏神 神殿鬼瓦 昭和10年 安藤照氏作って書いてありますね

犬の銅像です

犬の銅像のアップです。 『ANDO』1925.11って彫られています。

裸婦の銅像です。彼女だったのかなぁ~(-.-;)

裸婦の銅像のアップです。昭和6年2月 照 って書いてありますね。
このように桂家には西郷の銅像を作った安藤照氏から譲られた作品がいくつかありました。
西郷隆盛と無二の親友だった桂久武。その西郷の銅像を作った彫刻家安藤照氏と交友があった久武の子孫の関係。世の中の偶然を垣間見た瞬間でした。
やはり代は変わっても自然とつながりってあるんだな~と思ったサルタヒコでした。
これからも桂さんには明治維新の立役者西郷隆盛とその親友桂久武公のことを我々に伝えていただきたいですね。そしてその事を我々は霧島に住む次世代の若者に伝えていかなくてはと強く思いました。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました(⌒∇⌒)ノ""
2010年07月01日
南州墓地:桂久武公親子の墓
やっと今日は天気良くなりましたね\(*^ヮ^*)/
雨が降らないと元気百倍のサルタヒコですp(*^-^*)q
昨日は桂久武公の城山での最後をお話しましたが、今日は南州墓地で祀られている久武公親子そして西郷隆盛公のお墓を紹介したいと思います。
鹿児島市浄光妙寺跡、現南洲神社正面の高い石の階段を登りつめると大きな石の鳥居をくぐります。
左右に大小様々の墓石が所狭しとばかりに立ち並んでいる。

南州神社と書かれた看板の後ろには沢山のお墓が見えてきます。
正面に向って進むと更に一段高くなって此処もまた広い墓地いっぱいに墓石が立っています。
この上の段は、正面中央の最前列に一際大きな墓がある。

これが西郷隆盛の墓で一年中香華の絶えたことはないそうです。
其の左右に桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、村田新八などの墓があり、背後に幾十百ともしれぬ数の墓が林立している。

左から、西郷隆盛・篠原国幹・村田新八・渕辺高照・別府景長・桂久武と並んでいます
此処が史跡南洲墓地で、此処に眠る霊2023名、合同墓あるため墓石の数749基、いずれも南洲翁の徳を慕い、西南之役に馳せ参じて散華した若人たちの霊を弔う墓であります。

西郷隆盛(南洲翁)の墓に向かって右の五番目に桂久武公の墓があります。
大きな丸い土台石の上に立っており、桂久武と彫り込んである。
そして、其の直ぐ後ろに久武の長子桂久 (ひさはる)の墓が建っている。
西南之役で父子揃っての戦死は数少ない由だそうですよ。

久武公の説明文です。「日置島津家の出身。藩の大目付役の後、在藩家老として威信の変革に尽くす。西郷とは終生心の通じ合った人。都城県令。西南の役では大小荷駄本部長。城山にて戦死。48歳と書かれています。
この墓について、鮫島志芽汰氏(歴史家)は次のように語っておられます。
「私は南洲墓地の序列を見まして、本来ならば桂久武さんが西郷さんと並んで座られる所であるのに、余り人前に出ることをされなかったがために、当時墓を造る衝にあった県庁の人達が知らないままにああいう序列にしたのだろうと思います。桐野利秋、篠原国幹、別府晋介よりももっと南洲翁のそばに座られるべきだと思います。(久武サー、もちっとそばせえおじゃはんか)と恐らく南洲翁は言われたに違いないと思います。」・・・と。
西郷隆盛と桂久武の間柄を知れば知るほど、誰しも全くそうだと同感を覚える言葉であります。
このように死んだ後も西郷さんと桂さんはずっと一緒にいる訳ですが、鹿児島の西郷さんの銅像を作られた彫刻家「安藤照氏」とは桂さんの子孫の方と密接な関わりがあるんです。
そのことはまた次回ご紹介したいと思います。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました(⌒ー⌒)ノ~~~
雨が降らないと元気百倍のサルタヒコですp(*^-^*)q
昨日は桂久武公の城山での最後をお話しましたが、今日は南州墓地で祀られている久武公親子そして西郷隆盛公のお墓を紹介したいと思います。
鹿児島市浄光妙寺跡、現南洲神社正面の高い石の階段を登りつめると大きな石の鳥居をくぐります。
左右に大小様々の墓石が所狭しとばかりに立ち並んでいる。

南州神社と書かれた看板の後ろには沢山のお墓が見えてきます。
正面に向って進むと更に一段高くなって此処もまた広い墓地いっぱいに墓石が立っています。
この上の段は、正面中央の最前列に一際大きな墓がある。

これが西郷隆盛の墓で一年中香華の絶えたことはないそうです。
其の左右に桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、村田新八などの墓があり、背後に幾十百ともしれぬ数の墓が林立している。

左から、西郷隆盛・篠原国幹・村田新八・渕辺高照・別府景長・桂久武と並んでいます
此処が史跡南洲墓地で、此処に眠る霊2023名、合同墓あるため墓石の数749基、いずれも南洲翁の徳を慕い、西南之役に馳せ参じて散華した若人たちの霊を弔う墓であります。

西郷隆盛(南洲翁)の墓に向かって右の五番目に桂久武公の墓があります。
大きな丸い土台石の上に立っており、桂久武と彫り込んである。
そして、其の直ぐ後ろに久武の長子桂久 (ひさはる)の墓が建っている。
西南之役で父子揃っての戦死は数少ない由だそうですよ。

久武公の説明文です。「日置島津家の出身。藩の大目付役の後、在藩家老として威信の変革に尽くす。西郷とは終生心の通じ合った人。都城県令。西南の役では大小荷駄本部長。城山にて戦死。48歳と書かれています。
この墓について、鮫島志芽汰氏(歴史家)は次のように語っておられます。
「私は南洲墓地の序列を見まして、本来ならば桂久武さんが西郷さんと並んで座られる所であるのに、余り人前に出ることをされなかったがために、当時墓を造る衝にあった県庁の人達が知らないままにああいう序列にしたのだろうと思います。桐野利秋、篠原国幹、別府晋介よりももっと南洲翁のそばに座られるべきだと思います。(久武サー、もちっとそばせえおじゃはんか)と恐らく南洲翁は言われたに違いないと思います。」・・・と。
西郷隆盛と桂久武の間柄を知れば知るほど、誰しも全くそうだと同感を覚える言葉であります。
このように死んだ後も西郷さんと桂さんはずっと一緒にいる訳ですが、鹿児島の西郷さんの銅像を作られた彫刻家「安藤照氏」とは桂さんの子孫の方と密接な関わりがあるんです。
そのことはまた次回ご紹介したいと思います。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました(⌒ー⌒)ノ~~~
2010年06月30日
桂久武公と西南の役その2
今日も雨ですね~(>_<)
大粒の雨にまた呼び出しがあるかもとビビリまくってるサルタヒコです{{o(>_<)o}}
まぁ、平日は緊急対策も段取りできるんですけど、土日とかは誰もいないので、自分で走らないといけないから今日はまだマシですね(;^.^A
以前、桂久武公の西南の役でのお話をしていましたが、続きが滞っていましたので今日は城山に帰ってからのお話をしたいと思います。
城山帰還の後に、久武公は島津啓二郎、新納軍八等と共に工作所を興し、鉄砲の修理や爆薬の製造等を監督し、また兵糧の補給に意を注ぎつつ、岩崎の西郷洞窟と向かい合いの洞窟に起居されていたそうです。
いよいよ9月24日の官軍総攻撃には、久武は南洲翁(西郷)と共に早朝、岩崎谷本道を進み陣頭に立っておられましたが、幹部としては最初に流弾を受けて倒れたそうです。
城山における十五夜に際し、桐野利秋、中島健彦らと共に歌を詠じられ、
「篝(かがり)火(び)の煙の上に澄む月の清き心を誰に語らん」 の辞世の歌を残されました。
桂久武は西南之役では、最も困難な大小荷駄本部長として西郷のもとに在り、糧食、武器、弾薬其の他の軍需品の輸送供給に当たったり、終始一貫西郷はじめ薩軍に後顧の憂いなく存分に戦えるよう全力を尽くされました。
しかも、その間に兵員や糧食、軍需品を集めるため、鹿児島へ数回も帰ったということです。
作家司馬遼太郎は小説「翔ぶが如く」の中で、久武がこの戦に参加したことは薩軍幹部から深い感激をもって迎えられたと当時の模様を述べているが、西郷も久武の参加は全く予想外であり、真実嬉しかったに違いないでしょう。
「一番大事な時に一番大事なことを打ち明ける手紙を、西郷は藩政や県政、中央政府の重要な場面について、いつも久武宛に一番多く書き送っていることから考えて、西郷が平素から最も頼りにし、信頼していたのは桂久武であったろうと思う。」ということを歴史家鮫島志芽汰氏は公演の中で述べておられます。
「英雄の心事英雄のみ知る。」西郷隆盛と桂久武は文字通り肝胆相照らす心の友であったんでしょうねo(^-^)o
現在でも桂家には西郷さんからの手紙が多数保管されていますが、親友同士、同じ日に城山でお亡くなりになられ、あの世でも鹿児島の行く末を見守ってくれていたんだと思います。
我々も先人に学びつつ少しでも鹿児島のお役に立てるように頑張って行きたいものですp(*^-^*)q
今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました(⌒ー⌒)ノ~~~
大粒の雨にまた呼び出しがあるかもとビビリまくってるサルタヒコです{{o(>_<)o}}
まぁ、平日は緊急対策も段取りできるんですけど、土日とかは誰もいないので、自分で走らないといけないから今日はまだマシですね(;^.^A
以前、桂久武公の西南の役でのお話をしていましたが、続きが滞っていましたので今日は城山に帰ってからのお話をしたいと思います。
城山帰還の後に、久武公は島津啓二郎、新納軍八等と共に工作所を興し、鉄砲の修理や爆薬の製造等を監督し、また兵糧の補給に意を注ぎつつ、岩崎の西郷洞窟と向かい合いの洞窟に起居されていたそうです。
いよいよ9月24日の官軍総攻撃には、久武は南洲翁(西郷)と共に早朝、岩崎谷本道を進み陣頭に立っておられましたが、幹部としては最初に流弾を受けて倒れたそうです。
城山における十五夜に際し、桐野利秋、中島健彦らと共に歌を詠じられ、
「篝(かがり)火(び)の煙の上に澄む月の清き心を誰に語らん」 の辞世の歌を残されました。
桂久武は西南之役では、最も困難な大小荷駄本部長として西郷のもとに在り、糧食、武器、弾薬其の他の軍需品の輸送供給に当たったり、終始一貫西郷はじめ薩軍に後顧の憂いなく存分に戦えるよう全力を尽くされました。
しかも、その間に兵員や糧食、軍需品を集めるため、鹿児島へ数回も帰ったということです。
作家司馬遼太郎は小説「翔ぶが如く」の中で、久武がこの戦に参加したことは薩軍幹部から深い感激をもって迎えられたと当時の模様を述べているが、西郷も久武の参加は全く予想外であり、真実嬉しかったに違いないでしょう。
「一番大事な時に一番大事なことを打ち明ける手紙を、西郷は藩政や県政、中央政府の重要な場面について、いつも久武宛に一番多く書き送っていることから考えて、西郷が平素から最も頼りにし、信頼していたのは桂久武であったろうと思う。」ということを歴史家鮫島志芽汰氏は公演の中で述べておられます。
「英雄の心事英雄のみ知る。」西郷隆盛と桂久武は文字通り肝胆相照らす心の友であったんでしょうねo(^-^)o
現在でも桂家には西郷さんからの手紙が多数保管されていますが、親友同士、同じ日に城山でお亡くなりになられ、あの世でも鹿児島の行く末を見守ってくれていたんだと思います。
我々も先人に学びつつ少しでも鹿児島のお役に立てるように頑張って行きたいものですp(*^-^*)q
今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました(⌒ー⌒)ノ~~~
2010年06月23日
雷が落ちない呪文『くわばら くわばら』
みなさん、相変わらずの雨・雨・雨ですね~(>_<)
しかも日曜日の23時30分頃の雷の凄いこと。チグはおへそに10円玉を貼って寝たくらい凄かったみたいですもんね(*^m^*)pupu
違ったそれはデベソの直し方だった(*^m^*)pupupu~
お布団にくるまってたんですよね(*^o^*)>
みなさんは雷がなると『くわばら くわばら』って言えばいいって聞いたことありますよね(^▽^)
『えっ、聞いた事ない(゜o゜ /)/』 マジですか~f^_^;
今日は何故くわばらって言うと雷が落ちないと言われているかをお話したいと思います(*^-゜)v
このお話にはいくつかの説があるんですが代表的なお話を2つしたいと思います。.
まず、1つ目です。ここで言う「くわばら」とは平安時代の学者・菅原道真の領地だった「桑原」と言う地名から来ていると言う説。
菅原道真とは、藤原氏の陰謀で京都から九州の大宰府へと追い払われたのを御存知でしょうか。
そこで京を思い出しつつ、藤原氏を怨みながら亡くなり、色々な逸話が残っているんですね~(;^.^A
菅原道真の死後、藤原の関係者は次々と謎の死をとげたとも言われているほど、その恨みのパワーは凄まじい物だったんですよ。
京都の御所では雷が落ちるたびに、菅原道真が雷様となって、藤原氏に復讐しているのだと噂しあいました。
しかし、菅原道真の領地であった桑原地区だけには雷が落ちなかったんです(^-^)
そこで、京都の人は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地ですので雷は落さないで下さい」と言う意味で、領地名の「くわばら くわばら」と、唱えたと言うのです。
今でこそ学問の神様として有名ですが、かなり気性の激しい方だったみたいですね(;^.^A
もう一つは童話的お話です。
1556年(弘治2年)夏、とても暑い日のことでした。
空の上では雷様の親子が、雨を降らせてやろうと太鼓をたたいていました。
はりきりすぎた雷の子供が、うっかり足を滑らせてしまい、三田の欣勝寺の井戸に“ドスン!!”と大きな音を立てて落っこちてしまいました。
動こうともどうしても外に出られないので、「助けてくれ~!!」と大声で叫びました( 」´0`)」オォーイ
大きな音がしたので、欣勝寺の和尚さんが井戸を覗き込むと、やんちゃな雷の子供が落ちているので、あわててふたをして閉じ込めました。
雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と言ったので、和尚さんはもう落ちないことを約束させて、逃がしてやりました。
雷の子供は、雲の上に戻ってから両親に一部始終を話しました。
雷の両親は和尚さんに大変感謝をして、他の雷様たちを集めて「これからは、桑原に絶対に雷を落としてはならないぞ!!」ときつく戒めました。
それからというもの、欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがありません( ̄一* ̄)b
と言うお話です。この童話から『くわばらくわばら』と言ったら雷は落ちないよ~って事になったみたいです(-.-;)
皆さんも雷がなったり、自分に災いが来ないようにするときは是非『くわばら くわばら』と唱えてみてください。きっと災いが避けてくれるはずですよ(⌒∇⌒)
今日も最後まで読んでくれてありがと~(* ̄▽ ̄)ノ~~~
しかも日曜日の23時30分頃の雷の凄いこと。チグはおへそに10円玉を貼って寝たくらい凄かったみたいですもんね(*^m^*)pupu
違ったそれはデベソの直し方だった(*^m^*)pupupu~
お布団にくるまってたんですよね(*^o^*)>
みなさんは雷がなると『くわばら くわばら』って言えばいいって聞いたことありますよね(^▽^)
『えっ、聞いた事ない(゜o゜ /)/』 マジですか~f^_^;
今日は何故くわばらって言うと雷が落ちないと言われているかをお話したいと思います(*^-゜)v
このお話にはいくつかの説があるんですが代表的なお話を2つしたいと思います。.
まず、1つ目です。ここで言う「くわばら」とは平安時代の学者・菅原道真の領地だった「桑原」と言う地名から来ていると言う説。
菅原道真とは、藤原氏の陰謀で京都から九州の大宰府へと追い払われたのを御存知でしょうか。
そこで京を思い出しつつ、藤原氏を怨みながら亡くなり、色々な逸話が残っているんですね~(;^.^A
菅原道真の死後、藤原の関係者は次々と謎の死をとげたとも言われているほど、その恨みのパワーは凄まじい物だったんですよ。
京都の御所では雷が落ちるたびに、菅原道真が雷様となって、藤原氏に復讐しているのだと噂しあいました。
しかし、菅原道真の領地であった桑原地区だけには雷が落ちなかったんです(^-^)
そこで、京都の人は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地ですので雷は落さないで下さい」と言う意味で、領地名の「くわばら くわばら」と、唱えたと言うのです。
今でこそ学問の神様として有名ですが、かなり気性の激しい方だったみたいですね(;^.^A
もう一つは童話的お話です。
1556年(弘治2年)夏、とても暑い日のことでした。
空の上では雷様の親子が、雨を降らせてやろうと太鼓をたたいていました。
はりきりすぎた雷の子供が、うっかり足を滑らせてしまい、三田の欣勝寺の井戸に“ドスン!!”と大きな音を立てて落っこちてしまいました。
動こうともどうしても外に出られないので、「助けてくれ~!!」と大声で叫びました( 」´0`)」オォーイ
大きな音がしたので、欣勝寺の和尚さんが井戸を覗き込むと、やんちゃな雷の子供が落ちているので、あわててふたをして閉じ込めました。
雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と言ったので、和尚さんはもう落ちないことを約束させて、逃がしてやりました。
雷の子供は、雲の上に戻ってから両親に一部始終を話しました。
雷の両親は和尚さんに大変感謝をして、他の雷様たちを集めて「これからは、桑原に絶対に雷を落としてはならないぞ!!」ときつく戒めました。
それからというもの、欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがありません( ̄一* ̄)b
と言うお話です。この童話から『くわばらくわばら』と言ったら雷は落ちないよ~って事になったみたいです(-.-;)
皆さんも雷がなったり、自分に災いが来ないようにするときは是非『くわばら くわばら』と唱えてみてください。きっと災いが避けてくれるはずですよ(⌒∇⌒)
今日も最後まで読んでくれてありがと~(* ̄▽ ̄)ノ~~~